武器としての・・・(完)

「武器としての・・・」とタイトルを付けた本が多く刊行されていることに、感想を述べてきました。

このタイトルが最初に用いられたのは、「武器としての笑い 」 飯沢 匡(岩波新書)です。(調べた範囲で)

この本は、社会体制や権力と戦う手段として、”笑い”を武器にしてきた庶民の姿を描いたもので、自己啓発やビジネスを目的としている最近の「武器としての・・・」とは方向が全く異なります。

1970年代は社会運動や学生運動がまだまだ活発だった時代で、この本もそうした時代の空気を反映していると思われます。大きな権力や不条理に力で対抗するのではなく、笑いで吹き飛ばす心もちとでも言ったらよいのでしょうか?

笑いの対象は権力や体制であると共に、どうしても勝てない自らも含まれているように感じます。戦う相手が一人では勝てないほど大きくても対象が明確で、それでも戦う意思を強く感じます。

 

一方、最近は明らかに、100%関心が内向き、自分・自分・自分・・・で、戦う相手がいません。たくさんの武器(=スキル)を集めて磨き、いったい誰にどのような戦いを挑むのでしょうか? (武器が細分化されて対象も細かくなって来ている)

 

「武器としての・・・」がタイトルとなるきっかけは、2013年刊行の「武器としての交渉思考」瀧本哲史著(海星社新書)がベストセラーとなったことと思われます。

急逝が惜しまれる著者だが、とても素晴らしい内容で今も読み継がれている名著です。

本書の前書きで、著者は次のように述べています。

 

「交渉とは、単なるビジネススキルではありません。ときには敵対する相手とも手を組み、共通の目的のために具体的なアクションを起こしていく―そのための思考法なのです。」

 

つまり、交渉力はスキルでなく思考である。思考力が武器であると述べており、またアクションを起こすこと、すなわち武器を使って戦うことを前提としており、その後の2番煎じとは大きく一線を画しています。

 

本のタイトルを決めるのは担当編集者の方と言われていますが、他でこのタイトルの本が売れたから、似たようなタイトルを付けているとしたら、ちょっと安易な気がします。(「教養としての・・・」「・・・大全」も同様)

著者も編集者も、売れることを第一義としてこのタイトルを付けているとしたら残念です。本は売れてなんぼ、と開き直られるかもしれませんが、もしそうなら志が低すぎます。

 

読み手も、武器という言葉に惹かれて、安直にビジネススキルを身に着けられると期待(勘違い)していますのかもしれません。

 

PS.本のタイトルに限らず、電車のつり革広告やデパートのポスターなどのキャッチコピーのレベルが大きく低下していると思います。8消費者もあまり見ないのかもしれませんが) 糸井重里林真理子がコピーライターとして活躍した時代の熱気はどこへ行ったのでしょうか?